何かを誰かとシェアしたい?
今日もちょっとしんどい感じの目覚め。と、思ったら外はやっぱり雨でした。寝間着のまま溜まったメールと散らかった書類を片付けて…、と作業をしていてふとカレンダーを見たら、今日は10時からミーティングじゃないですか!完全に遅刻…。大慌てで準備したので10分遅れくらいで済みましたし、先方のメンバもまだ揃ってなかったんですが、無遅刻を長年キープしていただけに悔しい。
今日はシステムの移行作業を延々と夕方まで。クライアントには価値を説明し辛いこういった地味な作業を続けるのはしんどいものですが、その感覚をシェア出来るパートナが居るのは有難いことです。作業が一段落して夕方は梅田まで繰り出し、石釜焼きのピザをお腹いっぱい食べて帰宅しました。銀座も楽しかったけど、大阪もまだまだ未踏の場所が多くて、楽しみがいっぱいです。
梅田の地下鉄駅に向かう途中のショーウィンドウに「何かを誰かとシェアしたい」というキャッチコピーが目につきました。一年前の自分だったら、「シェア(共有)というのは、個人の目的達成の手段であって、それを目的化するのは倒錯だ」なんて、醒めた感想を持っていたと思いますが、今は少し違います。「何か」と「誰か」を自分で決める強い意思を持つことは大事ですが、手段が目的化すること自体はもう必定なのかな、という感覚です。「生きる」ことはそれなりに達成されてしまう恵まれた国に住んでいる以上、次に大切なのは「どう生きるか」という点です。ここに辿り着かないと、「生きる意味」そのものを見失いかねません。否、生きること自体に意味は無い、という真理に気付いてしまいます。自分で意味を見つけるタフネスを持った人間だけが生き残る世界です。だったら、一人での多くの他者に生きる楽しさを伝えよう、という目的意識だって十分に理解できます。「どう(How)」の中には多くの多様性があるのだと理解できれば、どんなことでも好奇心の対象になるし、どんな他者に対しても寛容になれるような気がします。
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