読書の記録『吾輩は猫である』

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読書の記録


吾輩は猫である

夏目漱石, , 2014-04-23, ****-

元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来て虐めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分からない。
第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫族に至ると行往坐臥、行屎送尿ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして、己れの真面目を保存するには及ばぬと思う。
危きに臨めば平常なし能わざるところのものを為し能う。之を天佑という。
しかし猫の悲しさは力ずくでは到底人間には叶わない。強勢は権利なりとの格言さえあるこの浮世に存在する以上は、いかにこっちに道理があっても猫の議論は通らない。
このくらい離れるとそんなでもない。やはり近過ぎるといかん。ーー顔ばかりじゃない何でもそんなものだ。
ことによると社会はみんな気狂の寄り合いかもしれない。気狂が集合して鎬を削ってつかみ合い、いがみ合い、罵り合って、その全体が団体として細胞のように崩れたり、持ち上がったり、持ち上がったり、崩れたりして暮して行くのを社会と云うのではないか知らん。
人間の定義を云うとほかに何もない。ただ入らざる事を捏造して自ら苦しんでいる者だと云えば、それで充分だ。
人間にせよ、動物にせよ、己を知るのは生涯の大事である。己を知る事が出来さえすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてもよろしい。その時は吾輩もこんないたずらを書くのは気の毒だからすぐさまやめてしまうつもりである。
人が認めないことをすれば、どんないい事をしても罪人さ、だから世の中に罪人ほどあてにならないものはない。
「生れる時には誰も熟考して生れるものはありませんが、死ぬ時には誰も苦にすると見えますね」「金を借りるときには何の気なしに借りるが、返す時にはみんな心配するのと同じ事さ」
しかし親子兄弟の離れたる今日、もう離れるものはない訳だから、最後の方案として夫婦が分かれる事になる。
賢夫人になればなるほど個性は凄いほど発達する。発達すればするほど夫と合わなくなる。
芸術が繁昌するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。
死ぬのが万物の定業で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢いかも知れない。諸先生の説に従えば人間の運命は自殺に帰するそうだ。…(中略)…何だか気がくさくさしてきた。三平君のビールでも飲んでちと景気をつけてやろう。