読書の記録『女は何を欲望するか?』

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読書の記録


女は何を欲望するか?

内田樹, , 2009-10-19, ***--

ダーウィンは「自分の理論にとって都合のよくない観察は、とくに注意してノートにとっておく」という「黄金律」を立てていたが、それは自説になじまない事例は彼の頭脳をもってしても記憶することができなかったからである。
例えば、私が「私は頭の悪い人間です」と言うときに、「私は自分の知的能力について適切な評価ができる程度には知的な人間です」というメッセージを私は同時に発信している。
人間が糧とするのは、食物や生理的安息ではない。人間は他者に愛され、承認され、他者の欲望の対象となることを糧として生きるのである。
真に分析的な知性とは、自分が「何を見ているか」ではなく、「何から目をそむけているか」、「何を知っているか」ではなく、「何を知りたがらないのか」に焦点化して、おのれ自身の知の構造を遡及的に解明しようとするような知性のことだからである。
「母子が密着していること」よりも「母子が離ればなれでいること」の方が生産的であり、母の能力開発にプラスである、それが最終的には子供の利益となるのだ、というメッセージが声高に叫ばれる。かくして、「外で働く女性」リプリーが「出産育児の専門家」である女王エイリアンを叩き潰して映画は終わる。
「質の高い物語」は私たちに「一般解」を与えてくれない。その代わりに「答えのない問題」の下に繰り返しアンダーラインを引く。
フェミニストたちにとっての「理想」の家庭、それは非血縁的=同志的な母子関係に「不能の男たち」がからみつくようなかたちで構成されるだろうと『エイリアン2』の図像学は告げている。
男たちが眼の色を変えて「そういうもの」を追い求めているときに、女たちが「どうして、あんな『空しいもの』のために命がけになるの?」と頭から冷水を浴びせかけてくれることの方が、社会システムの安全上は望ましいのである。
人間が模倣欲望の虜囚であるという事実認知について、私はフェミニズムに賛成である。「他人が独占しているものを私も欲しい」というのは自然な欲望のあり方だ。けれども、それは人間にとって原始的な欲望であり、それをどう制御するか、ということがたいせつなのだという遂行的課題の評価について、私はフェミニズムとなかなか意見が合わないのである。