読書の記録『自分探しと楽しさについて』

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読書の記録


自分探しと楽しさについて

森博嗣, , 2011-04-04, ***--

「自分を見失う」というのは、自分をコントロールすることができなくなるだけのことで、見失ったのは自分ではなく、「理想」あるいは「計画」ではないか。自分は、見失うどころか、むしろ前面に出過ぎてしまっただけだ。隠すべき醜態を晒してしまった状態のことである。
「自分」というのは、「他者」以外という概念として捉えられるものであって、周囲の人や物を観察して、それについて考えたとき、その視点、その思考がすなわち「自分」なのである。
「道」というものが元来そういう存在、つまり、「ほら、ここを通りなさい」というお節介によるものではないか。道ばかり歩いていると、ついつい、道しか歩けないと思い込んでしまう。道以外も歩けることを、すっかり忘れてしまうのだ。
「あいつ、上から目線だよな」と偉そうに言う人も、まちがいなく上から目線である。
電話というのは、相手の時間の中へ突然(予約もなく)飛び込んでいくもので、強制的に相手の生活を中断させる横柄さがあった。
自分ではできないことを他者に依頼する。そのために金を支払う。役に立つから、金を払うのだ。したがって、金を稼げるのは、社会に尽くした結果である。違うだろうか?
難しいのは、考えることであり、さらに難しいのは、考えすぎないことだ。
写真を撮ろうと意識している分、楽しさを見逃している。きちんと自分の目で見ていない。
死にたい死にたい、と考えられるのは生きているからである。どうしようどうしよう、と悩めるのは、いろいろ選択肢があるからだ。それは、どうしようもない最悪の状態ではない。