読書の記録
荒天の武学 内田樹 光岡英稔, , 2013-02-24, 日本の学校教育は、おそらく世界でも類を見ないほど強い規格化・標準化圧を子どもたちにかけている。 不条理な要求をされたり、不愉快な人物の不愉快な話を聞かされたりしていると、ほんとうに発熱してきて、発疹が出てくるのである。 ひとつは、私はあきらめなかった。もうひとつは運が良かった。このふたつだけです。 言葉の影響力は時間が経つと消えてしまう。言語的な入力は身体に残らないんです。逆に、身体を通じて出力したことは蓄積してゆく。 感じることと実際に起きている現象は同起していますが、認識は必ず後からやって来るので、認識してから動こうとすると現実に遅れを取る。 現代人は頭で学んでいる習慣、癖がついているせいで、習い覚えた癖を捨てることが怖いので手放せない「順序を追ってしか学べないんじゃないか」という思い込みがあるので、何かをぱっと見取って学べる自分というのを殺してしまっている。 アカデミック・ハイ:研究論文を書いている最中に、一瞬今書いている論文の最後まで全部「見える」ということがあります。(中略)論文を全部書いた紙が丸められた状態で頭の中にぽんと入っている。後のぼくの仕事はそれを広げるだけなんです。それだけでも何ヶ月かかかるけれど、もう論文は既に書かれている。 想定内の対応なら凡人でもできます。想定外のことがぱっと出てきたときに、ふさわしい判断ができるように普段から自分を磨いておく。そこにおそらく武の存在意義があるのだと思います。 「むかつく」ひとつにしても、身体部位のどこにどういう病状があるのか、心の動きにどういう詰まりやこわばりがあるのか、さらに腑分けして点検することは本当は可能な訳です。でも、「オレが、オレが」というふうに自我がのさばっていると、仮に痛みや不快があっても、それを身体の内側に踏み込んで精査するということはできない。 |
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