読書の記録
寝ながら学べる構造主義 内田樹, , 2009-02-17, 無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。 半世紀後の日本人から見たら、いまの私たちが何気なく実践している考え方やふるまい方の多くは、「二十一世紀始めごろの日本社会に固有の奇習」として回想されるに違いありません。 ですから、「私が語っているときに私の中で語っているもの」は、まずそのかなりの部分が「他人のことば」だとみなして大過ありません。(現に、私は確信を込めてこう断言していますが、そんなことができるのは、私がいま「ラカンの意見」を請け売りにしているからです。) (「体育坐り」あるいは「三角坐り」について) 「手も足も出せず息を殺している状態に子供を追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子供へのからだのいじめなのだ。」(竹内敏晴『思想する「からだ」』) (・・・中略・・・) もっと残酷なのは、自分の身体を自分の牢獄とし、自分の四肢を使って自分の体幹を緊縛し、呼吸を困難にするようなこの不自然な身体の使い方に、子どもたちがすぐに慣れてしまったということです。浅い呼吸、こわばった背中、痺れて何も感じなくなった手足、それを彼らは「ふつう」の状態であり、しばしば「楽な状態」だと思うようになるのです。 村上龍はあるインタビューで、「この小説で、あなたは何が言いたかったのですか」と質問されて、「それを言えるくらいなら、小説なんか書きません」と苦い顔で答えていましたが、これは村上龍の言うとおり。 |
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