読書の記録『子どもは判ってくれない』

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読書の記録


子どもは判ってくれない

内田樹, , 2010-02-16, ***--

「愛している」は私の中にすでに存在するある種の感情を形容する言葉ではなく、その言葉を口にするまではそこになかったものを創造する言葉だったのである。
私の主張の過半は、これまでに誰かが述べたことを私が自分の寸法に切り縮めて模写したものに過ぎない(現に、私が今書いているこの言葉はそのままロラン・バルトの請け売りである)。
人間の多面的な活動を統合する単一で中枢的な自我がなくてはすまされないという考えが支配的になったのは、ごく最近のことだ。「内面」とか「ほんとうの私」とかいうのは近代的な概念である。
わたしにとっての「知性」とは「自分が何を知らないのかということを知っていること」だと考えています。
「才能がない」人間とは「自分には才能がない」という事実を直視できない人間のことである。
私たちは他人の欲望を模倣する。私たちが何かを欲しがるとき、ほとんどの場合、その理由は「それを他人が欲しがっているから」である。他人の欲望に私たちの欲望は感染するのである。
「どうしたらバカな他人にこき使われずにすむか?」という問いを切実なものとして引き受け、クールでリアルな努力を継続した人間だけが、他人にこき使われずにすむ。
子どもが小さいあいだ、私が父性愛幻想にどっぷり浸かっていたのは、その方が私も子どもも生存戦略上有利だと判断したからである(だって、そうでしょ。おむつを替えながら、「オレにはこんなくだらないことをしている暇はないんだよ」といつもイラついていたら、子どもには気の毒だし、私自身だってあまりに不幸だ)。 (中略) 母性愛幻想が存在したのは、そのような幻想の支援なしには、とてもじゃないけど、やってられない現実が存在したからである。そして、そういう現実があるかぎり、幻想はつねに有用であると私は思う。
ほんとうに適切な知的パフォーマンスを求めている人は、まずおのれの「バカさの点検」から仕事を始めるはずである。
答えることのできない質問を執拗に受けるという仕方で沈黙を強いられるときの不快感と疲労感はうまく言葉では言えないものだが、あれは「呪い」をかけられていたのである。
愛情からであれ、教化的善意からであれ、誰かの「節度を欠いたコミュニケーションの欲望」の対象となったときに、つまり私たちを「縛ろう」とする人間の欲望の対象となったとき、私たちは「呪い」をかけられるのである。「呪い」は私たちの生気を奪い、その場から逃れる力を私たちから奪い、私たちはやがて蜘蛛の巣に捕らえられた虫のように水気を失って痩せ衰える。
「愛する」というのは「相手の努力で私が快適になる」ような人間関係ではなく、「私の努力で相手が快適になる」ような人間関係を築くことなのである。
誤解している人が多いようだが、けなすのは簡単で、ほめるのは難しい。 (中略) 悪口を言うときには対象への適切な理解は不要である。しかし、ほめるときには対象への適切な理解(と少なくとも書き手自身に承認されること)が必要である。